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2014. . 10

偲ぶ会

6月10日(火) ※今日の日記は物凄く長いです

父がお世話になったホスピスでは、年に2回 「偲ぶ会」 と言うものが行われる。
その会の事は以前から ホタルちゃん に聞いていた。
私の自宅にも案内状は郵送されてきて、約束した通り 「参加」 するに〇をつけて返送した。
もうこの辺の記憶は定かでないが、確か・・・・・(一昨年の)9月?10月?頃に行われた気がする。
母や兄にも声をかけたのだが、2人共 「参加しない」 と言う事で、姉と2人で参加してみた^^

約、半年ぶり位に再会できるであろう看護師さんたち。
会に興味があって参加すると言うより、久しぶりに看護師さんたちとお会いしたいが為に病院へと出向く。
ホスピス病棟が入っている病院内で行われるのではなく、病院の真ん前にある建物で会は行われた。

まず、受付を済ませる時に ソーシャルワーカーのYさんとお会いする事が出来たのだが・・・・・
Yさんに 
「ご無沙汰しております。その節はお世話になりました!」 
と、お声をかけさせて頂いたのだが、Yさんは姉や私の事が直ぐには分からなかったようで
「あ、はい。お久しぶりです。・・・・・・・・・^^?」
てな感じで、暫く間をおいてから気付いてくれた。
「あっ!S崎さんじゃないですか!あの頃と随分と表情が違うので直ぐに分かりませんでしたよ~^^;
表情も随分と明るくなられて、とってもお元気そうですね・・・・・良かったです♪」
そう仰ってくれたのだが、自分達では分からないものの、お世話になっていたあの頃はそんなに表情が暗かったのだろうか^^?
・・・・・まぁ、だとしても、それは当然と言うか、致し方ないのだろうと思った。

建物内に入り、指定された席に着く。
ふと周りを見渡すと、参加された人数は、多分、遺族の方だけでも50~60人はいらっしゃったであろう。
そのご遺族たちが1テーブルに4人ずつ座り、同じテーブルに病棟関係者の方が1人着いてくれる。
姉や私の座った席は、やはり半年ほど前にお父様を亡くされた娘さんと、そのお母様が座られた。
そして病棟関係者の方は、看護師さんではなく ”若先生” がご一緒してくれた。

会の内容は、ここのホスピス病棟にて2年内に亡くなられた患者さんの遺族が集まり、お互いに当時の話や現在の苦悩を話し合い、少しでも悲しみを柔らげましょう(?)と言った趣旨。
病院長の話から始まり、ご遺族代表の方の話や、ホスピス病棟看護師の代表として ホタルちゃん の話。
その後、病院内看護師さんたちのコーラスや、おじいちゃん先生とピアノ伴奏の方の楽器の演奏などなど・・・・・
中でも、あまりのクオリティの高さに驚いたのは、看護師さんたちのコーラス。
ぶっちゃけ、歌を聞く前はそんなに期待もせず、逆に、目の前で歌われる事がこっぱずかしい気持ちだった。
だが、3曲ほど歌われたその歌声のあまりの素晴らしさに、ほとんどの方が涙するほど!
私も感動して泣きそうにはなったが、そこは捻くれ者の私。
周りの方のあまりの泣きっぷりを見ていると、素直に泣けなくなってしまった^^;
そして横目で隣を見ると、私の姉は予想に反して大号泣・・・・・なんて素直な人なんだ!と、ちょっと感心しつつも歌を聞き終った。

その後、約30分ほど、各テーブル内で様々な話をする時間が設けられた。
若先生や姉や私は、最初黙っていたのだが、ご一緒した娘さんが口を開いた。

お父様が何の癌で、どのような治療経過を辿り、ここのホスピスへ入所する事になったかの経緯。
ホスピスへ入所する前に通院していた病院。その中で負った心の傷。
もっと何か出来たであろうと後悔する言葉の数々。
そして娘さんの言葉に同調するように、お母様の方も口を開いた。
長年連れ添われた旦那様へ、妻として、もっと寄り添う事は出来なかったのか?
もっと遣れるべき事があったはずなのに・・・・・と、やはり後悔の念を言葉にされていた。
そして、娘さんも仰っていた事なのだが、ホスピスへ入所する前に通院していた病院や医師に対する、不信感を露わにする言葉の数々。
お2人共に涙を流され、悔しさや悲しさ、寂しさや後悔を次々にお話しされていた。

順番で・・・と言うか、話の成り行きから姉や私も父との事をお話しした。
なのだが、姉や私はこれと言って後悔の言葉は出てこなかった。
後悔の言葉が出ない・・・・と言う事は、単なる自己満足に過ぎないかも知れない。
本当はもっと遣るべき事や、遣れるべき事があったのかも知れない。
だが、それらを踏まえた上でも後悔の言葉は出てこなかった。
何故か?・・・それを考えてみる。
原因が1つだけで無い事は確かながらも、その娘さんたちは、お父様とお別れする時間があまりにも短すぎた。
長い、短い だけで計り知れない事は十分に分かっている。
だが、私たち家族には お別れする時間 が想像以上に長く与えられた事も要因の1つだと思う。
その事は本当に感謝すべき事なのだと、痛いほど感じた。

その後は若先生も口を開き、5人で様々な会話をしたのだが、若先生のお話しには酷く感銘を受けた。
私も父との事があったから 「何か人様のお役に立てるような仕事がしたい!」 と目標を掲げ、資格取得や勉強に励むようになった。
でも、現在はまだまだで、その目標には至っていない。
若先生は、まだ当時ホスピス医になりたての頃に、ここのホスピス病棟でご自分のお父様を看取られたそうだ。
その後、ホスピスに対する思い入れが一層強くなり、少しでもより良いものに出来るようご尽力しているご様子。
そして、それから僧侶の資格(?)を取り、法名もお取りになった。
元々、医師であったとは言え、やはりお父様の事をきっかけとして、高い目標を胸に掲げ励まれていると言う。


これは余談だが
おじいちゃん先生は、昔、海外でもバリバリとご活躍されていた外科医らしい。
だが、十数年前にご自分が癌を患った事で、今まで自分が携わってきた 「病院のあり方」 や 「医療のあり方」 また 「患者に接するあり方」 に疑問を持たれ、自分が癌を経験した事で余生のあり方を考え直し、ホスピス医となられたそうだ。


長いと思われた30分のフリートークの時間だったが、気が付けば あっ! と言う間に終わってしまった。
ご遺族の気持ちだけではなく、病院関係者の方の胸の内も沢山お聞きする事が出来た。
そして皆さんのお話を聞き、色々と考えさせられる。

当たり前だが、患者さんやご遺族の方も、人其々で皆違う。
自分の心に負った傷や悲しみも、また、その受け取り方も各々違う。
まだまだ傷心の真っただ中で苦しまれている方も沢山おられて、前を向く事も、先に進む事も出来ず苦しまれている。
会に参加されたご遺族の方々、大体の方はそのように見受けられた。


会も滞りなく終わり、昼食をはさんで午後からも何かあるらしかったが、姉と私は昼食も摂らず帰る事にした。
帰る間際、ホタルちゃんや会いたかった看護師さんたちにお会いする事が出来、お話しする事も出来た。
の・だが、その中に I 崎さんの姿はなかった。
その時に 「手紙」 の事を含め、I 崎さんの事を聞いてみたのだが、ホタルちゃん曰く、私たちがお世話になった翌月に、旦那様の都合で千葉に引っ越す事になり、病院を辞められたそうだ。
ホタルちゃんは
「その手紙を送ったのは、多分、 I 崎でしょう・・・・・
残念ながら I 崎はこの病院は辞めましたが、引っ越した先でも看護師は続けると言ってました。
この病院の時の様に、ホスピス病棟の看護師を続けたい!と言ってましたよ^^」
そう仰った。

私が手紙を貰った時には、既にここの病院は辞められていた I 崎さん。
現在はどこの病院におられるのかも分からない。
けど、今もどこかのホスピスで、私たち家族に寄り添ってくれたように、他の患者さんやご家族さまに寄り添ってくれておられるだろう。
2年以上経った今も、忘れず感謝している。
I 崎さん、病棟看護師さんや先生・・・
ソーシャルワーカーのYさんに、私たち家族に携わって下さった沢山の方々。

「次回の会にも是非、参加して下さいね^^」
と、看護師さんや若先生は仰ってくれた。
若先生は、今の私が資格取得の為に勉強をしている旨を話した事から
「そのような志があって、資格を取られたり勉強されているのなら、是非、ここの病院で共に働きましょう^^
何年でも待っていますよ♪」
そんな有難いお言葉もかけて下さった。
「次回も参加・・・・・」 そうは言われたが、姉がどう思ったかは分からないが、私は次回の会には参加する気持ちがなかった。

有難い事に私たち家族には、父とお別れするまでの時間が沢山あった。
「3カ月から半年。抗がん剤が上手くいって1年。」
その余命宣告を超え、丸々3年に亘って父と過ごす事が出来たし、大事な想い出も沢山貰う事が出来た。
そして、父が教えてくれた事で、自分が進むべき道?自分の目標?が見つかった気がする私。
父に会えないのは寂しいけど、悲しみにくれ、立ち止まっている時間はもう過ぎた。
この先は、目標に向かって邁進するだけ。
なので、偲ぶ会にはもう参加しない。
改めて目標に進む決心を自分の中で再確認し、そう決めた出来事だった。


長々と・・・最後まで読んで下さった方へ、有難うございました
次回の更新をもって、ブログを完結したいと思います。

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2014. . 06

手紙

6月6日(金)

父の納骨も終わって暫く経ち、日常も徐々に落ち着き始めた頃。
お世話になったホスピスから私の自宅へ手紙が届いた。
「そう言えば秋口に ”偲ぶ会” があるって言ってたから、それの案内状か^^?」
そう思い、封筒を開けてみる。
しかし、その中身は、案内状とはとても思えぬピンク色の便箋が2枚入っていた。

考えてみれば・・・・・案内状であれば病院名(病棟名)や宛先などは印刷されてくるのだろう。と思う。
だが、差出人は 「H病院 ホスピス病棟 看護師一同 (代表でホタルちゃんの名前)」 となってはいるが、誰かの直筆、手書きのものである事は直ぐに分かった。
「はて?案内状じゃなかったら、一体・・・^^?」
そんな思いで、便箋に丁寧に書かれた文字を読み進めて行った私。


せっかく人様から頂いた手紙の内容をブログに晒すのは如何なものか?
と思うので、ざっと内容だけを箇条書きにして書いてみる^^;

〇 長年、ホスピス病棟で看護師として働いているが、私たちのような家族とは初めて出会った。
〇 患者と、その家族のあり方を良い意味で再認識出来た。
〇 看護師として、私たち家族と携われた事を感謝している。
〇 虚無感に苛まれる事の多いホスピス病棟の看護師。だが、私たち家族との関係では其れに苛まれる事はなかった。
〇 人と人、家族の絆を教えて貰った。

などなど・・・・・
箇条書きにしてみると、どの面下げて、よく恥ずかしげもなく書けるよな
と、我ながら思うのだが、上記のような内容が言葉を変え、表現を変えて繰り返し書かれてあった。
だが、そんなにお褒めの言葉を並べられても、素直に受け取る事が出来ない捻くれた私。
「またまたぁ~~~もう!社交辞令が上手いんだからぁ~!
看護師さんも大変だよなぁ~~~・・・・・遺族の為のアフターフォローも、こうやって全てのご遺族にされてるんだもん。
仕事だけでも大変で忙しいだろうに、こうやって個々に手書きの手紙まで出さなきゃいけないなんて、本当、頭が下がる。
こんな手紙を貰ったら、どのご遺族だって ”自分たちの最期のあり方” を、後悔しなくて済むだろうな!」

このように、遺族を労う言葉を敢て書いて送ってくれる事は、ホスピス病棟で働く看護師さんの 「仕事の一環」 なのだと勘ぐりつつ・・・・・
それでもその、温かいお心遣いを下さる事には感謝の念でいっぱいになる。
「どんなに今、出来うるすべての事をやったとしても、少なからずの後悔は残るだろう。
でも、後悔は少なくあるように、精一杯の事を今はやろう!」
そう思いながら、父との闘病生活をおくってきたつもりの自分だった。
そんな懸念がありつつも、父亡き後は不思議なほど後悔する事がなかった私。
でも、後悔ではないのだが、少なからず 「あの時もっと、どうにか出来なかったのか?」 と、自問自答する事はある。
そんな思いを抱えていても、このような優しい言葉の数々を頂くと、そんな思いさえ薄れていく。

例え 「仕事の一環」 や 「社交辞令的なもの」 であったとしても、胸に抱える痛みや思いも、それらの言葉が拭い去ってくれる気がした。
最初は サラッ と読み流すように読んだ言葉の数々。
だが、その後、何回も立て続けに、繰り返し繰り返し・・・一文字一文字を噛み締めるように何度も読み返した私。
そして、何度も何度も泣いた。

その後は頂いた手紙を実家に持って行き、母や兄にも見せた。
勿論、姉の家族にも読んで貰った。(私の元・旦那にも)
皆、その手紙を読んでの開口一番は
「看護師さんて本当に大変だね!こんな手紙も書かなきゃいけないんだ!」
と、私と同じで捻くれた発言をしてはいたが、何度となく読み返し、やはり皆、目に涙を浮かべていた。

これは姉と私の勝手な憶測ではあるが、この手紙を書いてくれたのは I 崎さんだと思った。
父の担当だったから。との理由ではなく、差出人さえ
H病院 ホスピス病棟 看護師一同 (代表でホタルちゃんの名前)
とはなっているが、この手紙は I 崎さんが仕事の一環としてではなく、あくまで ”個人的に” 私たち家族に宛てて書いてくれたのではないだろうか?
何度となく読み返した、とても温かな言葉の数々に、優しさの詰まった文章。
読めば読むほど
「きっと手紙の主は I 崎さんでは?」
の疑問も
「この手紙をくれたのは、絶対に I 崎さんだ!」
との確証にかわった。

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2014. . 04

不思議 2

6月4日(水)

23年前にも見た不思議な夢

父が亡くなってから不思議な夢を見た。
その夢から目覚めた後にふと思う。
「あれ?この夢って・・・・・確か大昔にも見たような?」



私が17歳の時に最愛の祖母が亡くなった。
亡くなってからは毎日のように 「夢の中でも良いから祖母に会いたい!」 と思い続けていた。
だが、それも虚しく、祖母が夢に出てきてくれる事はなかった。
それから暫く経った頃、四十九日の前だったか後だったかは忘れてしまったが、思い続けた祖母が、やっと夢の中に出て来てくれた事がある。

六畳間くらいの畳張の部屋。
カーテンも付いていない小窓がある。
部屋の真ん中にテーブル(ちゃぶ台?)だけがあり、その他に家具などは見当たらない。
日付も時間も定かではないが、小窓から差し込む光の加減で、それが西日である事が感じられる。
テーブルの前には正座している祖母。
祖母の両手は正座をしている膝の上。
テーブルをただ黙って見つめ続けている。
私がその様子を見ている事を、祖母は気付いていない。

・・・と、ただそれだけ。
そんな夢から目覚めた後
「婆ちゃんが夢に出てきてくれて嬉しいけど・・・・・あれは何の意味があったのだろう?」
そんな風に感じた私。
これと言って会話をしたとか、何かを語りかけてくれたわけでもない。
ただ祖母が座っているのを、黙って私が見つめ続けているだけの夢。
その夢を不思議に感じた私。


そして今から2年前。
やはり父の四十九日の前だったか後だったかに見た夢。
23年前に見た、祖母の時と全く同じ夢。
違うのは、祖母が父に代わっただけで、その他は1つも違わない。
父のその夢から目覚めた後、デジャブのような気がして記憶を遡ってみれば、何の事はない、祖母の時にも見た同じ夢。

その夢には何か意味があるのだろうか?
不思議に思った私は、母にその夢を話して聞かせた。
「母ちゃん・・・・・昨日、父ちゃんが夢に出てきたよ。
むかぁ~し昔、婆ちゃんの時にも見たんだけど・・・・・全く同じ夢だった。
あ、ほら!昔、母ちゃんに話した事があるじゃん?もう昔の事すぎて覚えてないかな?」
そう言いながら話していると、途中でその事を思い出した様子の母。


前の記事にも書いたけど・・・・・私の母は霊感が強い。
無神論者を豪語している私ではあるが、霊的な事は私も信じている。
霊感が強い母なら、私の見た夢の意味が分かるだろうか?
そんな思いで話してはみたのだが、敢てその事は書かないけど、母の答えは私の想像するところとは違うものだった。


父亡き後、今思えば当時の私は少し病んでいたのかも知れないと思うのだが・・・・・
真剣に 「父ともう1度だけ話がしたい!何とか手立てはないものか?」 と考えていた。
会えるはずもないし、話す事も出来ないと分かっていながら、それでも真剣に模索した。
そんな中、色々とネットで調べていた時に目にしたページ。
それは、人の死後について色々と書かれていたのだが、宗教云々はさておき・・・・・
私の見た夢と何となく類似された事が書かれており、何となくそれを信じた私。

私が見た夢の母の答えは、とても受け入れたくない、受け入れがたい内容であった。
でも、ネットに書かれていた事は
「なるほど・・・・・そーゆー事もあるのかも?」
そんな風に思える。
そうであると信じれば、亡き祖母も、亡き父も・・・・・そして夢を見た私も救われる。
23年の時を経て、不思議に感じられていた夢も、何となく自然に受け入れる事ができた。


一体、何の話だ?血迷ったのか?今も病んでるのか?
と、ブログを読んで下さった方には思われるかも知れないと承知の上で、今日の記事は書きました。
長く生きてりゃ、同じ夢なんて見ても不思議じゃないだろ!
そうは思いつつ・・・・・
でも、この夢だけはそう思える事ができなかった。

そんな風に思うなんて・・・やっぱ、私って、病んでるんですかねぇ・・・・・

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2014. . 03

不思議 1

6月3日(火)

無くしていた腕時計

まだ、ホスピスの大部屋にいた頃。
父が自宅から持って来ていた、愛用の腕時計が無くなってしまった。
膵臓癌が発覚してから父の体重が激減し、今まで愛用していた腕時計が 重く、緩く なってしまったと聞いた兄と私は、父の日?父の誕生日だったか定かではないが、新しい腕時計をプレゼントした。
しかし、プレゼントした当初こそは使っていたのだが、そのうちに段々と使わなくなってしまった。
結局は 重く、緩く なってしまった腕時計の方が使い勝手が良かったらしく、ホスピスへもその腕時計を持って行った。

せん妄もまだそこまで酷くはなかった父だが、見当違いは見られていたので
「さっきまでしていたのに、ちょっと外した隙に腕時計が無くなった!」
と言われたが、父の勘違いで何処かに置き忘れたのではないか?と思い、何れ見つかると思っていた。
だが念のため、看護師さんたちにはその旨を話しておいた。
病室や病棟で 「持ち物が無くなる」 事は、病棟サイドとしても色々な意味を含め問題があるらしく、看護師さんたちも皆必死で探してくれたようだったが、結局はホスピスを出る日を迎えても、腕時計が見つかる事は無かった。

父の火葬の時、棺に様々な愛用品を納める時も、兄と私がプレゼントをした方の腕時計を入れた。
兄曰く
「お父さんが気に入っていた方の腕時計を棺に納めてたら、お兄ちゃんは ”形見” として、プレゼントした方の腕時計を貰おうと思っていた。
でも、プレゼントした方を棺に納められた事は、みぃー。やお兄ちゃんにとっては結果的には良かったな。
ちゃんとお父さんに持って行って貰えたからな。」
そう言っていた。


そして
父の火葬を(一昨年の)4月7日に終え、翌々日の4月9日(月)。
姉と私は、再度ホスピスへと車を走らせた。
納骨さえまだだったが、無事に父の火葬を終えられた報告をしたいのが一点。
それと、改めて心ばかりのお礼をしたいが為に。

病棟の看護師さん全員、各々にお礼の品を買うのは考えるところがあり止めておいた。
だからと言って、特にお世話になった4人にのみ個別に買うのも躊躇われた。
結果、 I 崎さんにだけ個別でお礼の品を渡す事に決め、病棟の職員さんたち全員にお渡しできるようにと菓子折りを2つ買い、あとは ”病棟自体” に買った。

病棟のラウンジには、今まで入所された方の御身内がお渡しした 「お世話になった感謝の思い」 が様々な形で飾られていた。
手作りの小物、ぬいぐるみ、千羽鶴、絵手紙や風景画など、様々な物が飾られている。
それらを見ると、ここで最期を迎えられた事を皆さん本当に喜んでおられ、感謝されている事が伝わってくる。
それら思い出の品の中に、私たち家族も交ぜて頂けたら嬉しいな^^
そんな思いで、額縁に入った、メッセージの入った可愛らしい絵が描かれている物を選んだ。
「あなたに出会えた事が感謝  あなたと笑える事に感謝」
たしか、こんなメッセージだったように思う^^


ホスピス病棟に着くと、丁度お手すきだったようで 若先生 と 頼りになる体格の良い看護師さん 手塚○美さんに似た看護師さん がラウンジに出てきてくれた。
父の火葬が終わった事を報告しながら、持参していた父の遺影(小さいもの)を見て貰った。
父がまだ痩せ細る前の写真で、姪の七五三の時のものなのでちゃんとスーツを着ている。
若先生は
「お父様、本当に男前ですねぇ~^^」
と、何とも嬉しい事を仰ってくれた。
2人の看護師さんも口を揃えて
「私達の知っているお父様は痩せてらしたけど、でも カッコ良いな~♪そう思ってましたけど・・・・・
写真のお父様はまだ痩せる前で、違う意味でもっとカッコ良いですね♪やっぱり素敵です!」
そうお褒め下さった^^

少しすると、ホタルちゃんが私たちが来ている事を何方かに聞いたようでラウンジに来てくれた。
そして嬉しそうに
「見てください^^お父様の腕時計が見つかったんですよ♪
あれほど何処を探しても見つからなかったのに、お父様がホスピスを出られた後、掛け布団の敷布の中から出てきたんです!なぜ、敷布の中にあったのかは判りませんが・・・・・」
そう言って、父の愛用していた時計を手渡してくれた。

その後は ホタルちゃん にも写真を見て貰ったりお話したり・・・・・
タイミングが相当良かったのだろう!皆さんと暫くの間、ゆっくりとお話しする事ができた^^
十分にお礼の言葉も述べられたし、お礼の品も厭味なくお渡しする事が出来た♪
ただ1つ残念な事に、 I 崎さん は出勤前との事でお会いする事が出来なかったのだが・・・・・

そんなこんなで
秋にホスピス病棟で行われる 「偲ぶ会」 に出席する事を約束して、病棟を出ようとエレベータに乗り込み病院ホールまで降りた姉と私。
エレベーターの中で
「I 崎さんに会えなかった事だけが心残りだね・・・・・」
そう言いながら手渡せなかったお礼の品を見ていた時、エレベーターのドアが開いた。
奇跡的に、その開いたドアの前には I 崎さんの姿があった!
I 崎さんは、この日、たまたま少し早く出勤されたのだそうで、無事にお会いする事が出来たのだった
そして場所を移し、I 崎さんと少しゆっくりお話する事も出来たし、お礼の品も個別にお渡しする事が出来た♪



ホスピスからの帰りの車中、姉と2人で
「皆さんとゆっくり話せたし、会いたかった看護師さん全員に会えて本当に良かったね♪」
と、喜び合い
「でも、よく時計が見つかったよねぇ~~~!
愛用の時計を棺には入れられなくて、父ちゃんには悪いような気がするけど・・・・・
でも、これこそ家族にとっては 大事な形見 になるよね^^」
などと言い合いながらも
「きっと父ちゃんが、そうなるようにと、してくれたんだね♪」
そう思い、きっと父が してくれたであろう 事に感謝していた^^

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2014. . 28

遺骨

5月30日(金)

叫びだしたい、縋り付きたい・・・・・
そんな衝動に駆られながらも、父を扉の向こう側へと見送り、その扉が閉められた時 「姿を見る事が出来る父との別れ」 を観念した。
そしてその後、1時間ほどを経て父を迎えにと戻ったのだが・・・・・

不思議な事に、遺骨となった父を見た時には既に諦めがついた。
仕方ない事とは言え、あれほど嗚咽をあげ泣いたにも関わらず、遺骨になった父と対面した時、変な表現の仕方ではあるが、何故か清々しいような気持ちになった。
息を引き取ったとはいえ、横たわる姿が見えるうちは 「死を認めたくない」 「死を受け入れたくない」 気持ち。
だが、遺骨となってしまっては死を認めざる得ない状況で 「やっと父の死を受け入れられた」 のかも知れない。
あれほど姿が見えなくなる事に涙したはずが、火葬後は自然と 「父ちゃんはずっと心の中に生き続けてる」 と思えるようになった。


その後はご住職を見送ったり、葬儀社の方にお支払いを済ませたり。
この日に納骨を済ませる訳ではなかったので、その後は来て頂いた方にご挨拶を済ませ実家へと戻る。
そのまま一緒に実家へと来て下さる方々も居たのだが、車に乗込むときは皆さん口を揃えて
「家族水入らずで帰れるように、皆は同じ車に乗ってお父さんと帰って^^」
と、お気遣い下さった。
そして兄が運転する車に母と姉と私が乗って、私の膝の上には父の遺骨を抱き抱えて帰路に着く。

実家の近くは川沿いで、そこには数百メートルの桜並木。
風に吹かれ舞い散る桜吹雪の中、生前は叶う事がなかった父とのお花見を、私たちは車に乗りながら、桜並木を横目にお花見をしながら帰った。
母や姉、兄や私も口々に父の遺骨に話しかけながら皆で帰る。
「父ちゃん、桜が咲いてるよ^^」
「今までお花見なんて家族でした事もなかったけど・・・・・皆でお花見だね♪」
そんな言葉を口にしながら、この時も涙は流れてきたけど。
でも、この時の涙は先ほどまでのとは違う。
なんか・・・・・晴れやかな気持ち、晴れやかな涙だった。


まだまだ、全てが滞りなく終わったわけではないけど・・・・・
丸々3年に亘った父の闘病生活。
父と共に歩んできた、沢山の大事な思い出ができた闘病生活が、この時に終わったのだと感じていた。

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2014. . 28

火葬

5月28日(水)

一旦は K美と実家に訪れた姉。
K美のランドセル姿を父に見せた後、この日は実家に泊まる為、取り敢えず K美を自宅に連れて帰る。
その後暫くして再度実家へと戻ってきた姉。

有難い事に夕方から夜にかけても、お線香をあげに来て下さる方が多く、父も沢山の方にお別れが出来た事を嬉しく、有難く思っていたのではないだろうか。
この日最後に来て下さった方が夜9時過ぎに帰られ、1日忙しかった母と兄には休んで貰う事に・・・・・
そしてホスピスに居た時以来(と、言ってもつい2日前)この日は姉と共に寝ずの番をした。

よく 「泣いてる暇もないほど忙しい」 などと耳にはしていたが、自分が経験してみて心底実感した私。
ホスピスを出て、実家に戻って来るまでは 「我ながら、よくもこんなに泣けるものだ」 と思っていたけど、実家に戻ってきてからは本当に泣く暇もないほどに慌ただしく、忙しい時間を過ごしていた。

深夜になり、姉と色々と話はしていたものの・・・・・正直2人共、既に疲労困憊状態。
実質9日間は満足に睡眠時間を確保できてはいなかった事もある。
会話をしていても、お互いにボケェ~としていた^^;
それでもまだ、気が張っているからこそ出来たのだろう。



明けて翌日。(一昨年の)4月7日。
少しだけ仮眠はとったものの、母と兄が起きてからはお互いに自宅へ戻り、身支度を整え喪服を持って再度実家へ。
姉は Kちゃんと K美と共に。
私は I ちゃんと共に実家へと戻った。

葬儀場(火葬場)の予約時間の2時間前位から葬儀社の方が来てくれる。
親族やご近所さんから、一緒に葬儀場へ・・・・・と仰って貰ってはいたが、最少人数にて執り行う事に決めていたので、此方からお声掛けさせて頂いた方のみ、出棺から来て頂いた。

葬儀社の方に言われる通りの手順を踏み、お棺の中に 「父の愛用品」 などを納める。
その他にも 「父が旅の途中で食べれるように」 と、食べ物も入れた。
そして頂いていた花束をばらし、父の周りを花で埋め尽くし・・・・・
最後に父の膵臓癌が発覚した当初、私たち家族で作った 「千羽鶴」 も一緒に納めた。

(余談ではあるが・・・・・
確か昔は 「三途の川を渡る為に必要なお金である 六文銭 を棺に納める」 必要があり、今の時代に 六文銭 がない事から、代わりにお金を一緒に入れていたはず?
でもこの時は 「紙に書かれた六文銭」 を一緒に納めたのだが、今はそう言うものなのだろうか?
・・・そう言えば、昔の旅支度は服装から何から決められてたもんな!一体、何時位からこうなったのだろう?などと疑問に思った。)


少人数の為マイクロバスなどは出さず、各々の車に乗り込み葬儀場へ。
時間の都合で実家へ来て貰う事が出来なかった人とは葬儀場にて合流した。
そして予約の時間まではロビーで過ごしその時を待っていたのだが、この時はまだ葬儀社の方との打ち合わせや、ご住職のお迎えなどで忙しく動いていた私。
あちらこちらに気を張り巡らしていた事もあり、悲しみに浸る事もなかった。



時間になり、いよいよ父が・・・と、なり、ご住職にお経をあげ始めて貰った途端、急に嗚咽とともに涙が溢れ出た。
息を引き取ったとはいえ、父は安らかな顔でただ眠っているだけに見える。
誰に、とか、何に?ではなく、叫びだしたい衝動にかられる。
「お願いだから、父ちゃんを燃やさないで!」
だけど、勿論そんな事は言えない。と言うか、言わないけれど・・・

肉体が目に見えなくなったとしても、自分が覚えている限り、故人の魂は生き続ける。
・・・そうは思っているけど、でも、今目に見えている父の姿が見れなくなると言う寂しさ。
これで最後となる父の姿に縋り付き、離れたくない。という衝動にかられる。

係りの方から
「では、最後のお別れです。ご親族様2名様のみ、ドアの前までご一緒にどうぞ。」
と声をかけられ、母と兄がドアの前まで歩み出た。
・・・本当なら母と一緒に私が行きたかった。
でも、私が行ってしまったらきっと、衝動が抑えられずに本当に父に縋り付き泣き叫んでしまっただろう。
一歩だけ踏み出していた足ながら、やっとの思いでその場に留まった。

K美は幼さから、まだ 「人の死」 と言うものを理解していないようで、嗚咽をあげて泣く私や、涙を流す周りの大人たちを不思議そうな顔で見ていた。
そして、あまりにも酷く泣く私の顔を覗き込み
「みぃー。ちゃん・・・・・泣いてるの・・・?」
と小声で、やはり涙を流していた姉に聞いていた。


父が息を引き取った時も、勿論、大泣きした私ではあるが・・・・・
ここまでの嗚咽をあげて泣いたのは、ここ数年間で、後にも先にもこの日、この時だけだった。

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2014. . 27

きっと見てるね^^

5月27日(火)

自宅に戻ってから一夜明け、(一昨年の)4月6日(金)。
この日は姉の娘である K美 の、小学校の入学式であった。
父がホスピスに居る時から
「父ちゃんの その時 と重なってしまったとしても、K美の入学式を優先する。」
と、言っていた姉。
その時は仕方がない!と諦めていた姉だったが、(変な言い方だけど)ちゃんと父を看取る事もできたし、娘の大事な入学式も出席する事ができた。

昨日は実家へ戻って来てから、一旦は自分の家に戻ったものの、諸々の所要をする為に再度来てくれた姉と旦那の Kちゃん。
翌日に入学式を控えていた事を知っている母・兄・私は、口々に
「色々とお疲れ様。明日の事もあるし・・・・・K美も待っていると思うから今日はもう戻って^^
明日、気を付けて行ってきてね♪」
姉やKちゃんにそう言うと
「うん。本当は今晩も一緒に居たいんだけど・・・・・
でも、K美も待ってるし、明日の支度も色々しなくちゃいけないから、お言葉に甘えて今日は帰らせて貰うね。
すいませんけど、後はお願いします!」
そう言って帰って行った。

もしかして父ちゃんは、K美の入学式に重ならないように「この日」を選んだのかな?
I 崎さんの事も含めて考えても、色々と辻褄があうような・・・・・?
父ちゃんは父ちゃんなりに、色々と考え、皆に配慮して「この日」にしたのかも?
お線香を絶やさないようにと、酒盛りをしつつ思い出話に華をさかせている時に、そんな事をふと思った私。

幾ら「その時は仕方がない!」と姉は言っていたけれど・・・
やはり、看取れなければ少なからずの後悔は残ってしまったと思う。
そして姉がその場に居れない状況であれば、勿論 Kちゃんだって看取る事は出来なかった訳で・・・・・
だとすると、父もその2人からは看取って貰う事が出来なかったという事だ。
それらを考えると、こじ付けかも知れないけれど、
「誰も後悔する事がないように、また、父ちゃん自身も皆に看取って貰えるように」
と、そうなるように「なるべくしてなった」のかも・・・・・?そんな風に思った。



そして、有難い事に翌日(4月6日)も朝から、沢山の方が父にお線香をあげに来てくれた。
父の兄弟は、妹である叔母をのぞいては既に皆、他界している。
しかしその叔母は病気で入院している為、来て貰う事はできない。
だが、何処から連絡が入ったのか定かではないが、有難い事に他界した兄弟の奥さんや旦那さん、その子供さんたちは皆来てくれた。
一方、母方の兄弟は皆健在であり、怪我で入院している1番下の妹以外は、遠方に住んでいる兄弟も含めて、やはり皆さんお線香をあげに来て下さった。

沢山来て下さった方の中で、私が何よりも驚いたのは、母方の兄弟の子供さんたちが来てくれた事。
会うのはもう、かれこれ皆10年ぶり位?と思われ、下手すりゃ20年近く会っていない子たちも皆来てくれた!
私がもういい歳なのだから、親戚もみんな「いい歳」になっている^^;
名前を聞かなくても直ぐに分かる子もいれば、名前を聞いても
「うっそぉ~~~!変わったねぇ~~~!」
と、思わず言ってしまった子もいる^^;
皆もうすっかり 「お父さん」 と 「お母さん」 になっていて、これまた下手すりゃ、既に 「孫」 がいる子もいた^^;

父の兄弟関係や母の兄弟はともかく・・・・・いや、来て下さって本当に有難いのだが・・・・・
まさか、親戚が一堂に会し父に会いに来てくれるだなんて思ってもみなかった!
土曜日の午前中に火葬を控えている為、父に会えるのはこの日が最後であるとはいえ、皆、仕事や家庭の事もあり忙しいであろうと容易に想像できる。
まだ小さい子供さんが居れば尚の事、忙しいだろうに・・・・・。
皆その忙しい中を、時間を作って来てくれた事が、本当に嬉しかったし、本当に驚いた!

私がまだ子供の頃、母方の親戚から父は 「性質の悪いオジサン」 だと思われていた^^;
いつも酔っぱらっていて、シラフの姿を見た人は少ないはず・・・・・
決して暴力などは振るわないが、酔っては問題を起こす面倒なオジサン

来てくれた皆、父の思い出を口々に話してくれた。
「おじちゃん・・・いつもお酒飲んでたよね^^;
でも、私は(俺は)おじちゃんの事は好きだったな!おじちゃんは楽しい人だったよね^^」
そんな事を話してくれながらも、皆は父の為に涙を流してくれていた。

お陰様で沢山の方に来て頂き、慌ただしい時間を過ごしていた私たち。
そして気が付けば、あっ!という間に夕方になっていた。
ちょうど一息ついていた頃、姉が K美を連れて訪れた。
すると姉は、家に入るや否や徐に口を開いた。
「ほら、K美!おじいちゃんにランドセル背負った姿を見せてあげな^^
おじいちゃんに買って貰ったピンクのランドセル、似合ってるでしょ^^?って。」
と、K美に言うと
「おじいちゃん、Kちゃんは今日、入学式だったんだよ!
おじいちゃんに買って貰った、このピンクのランドセルを背負って行って来たよ^^
似合う?おじいちゃん、ありがとうね♪」
そう言いながら、少し”おめかし”した K美がランドセルを背負ったまま、父に話しかけ、その姿を一生懸命見せるようにしていた^^



ちゃんとした通夜や告別式はしないけど・・・・・
有難い事に、沢山の人がこうして父の顔を見に来てくれて・・・・・
たった1人の可愛い孫娘のランドセル姿も見せに来て貰って・・・・・
「父ちゃん、本当に嬉しいね!良かったね!本当に感謝しなくちゃいけないね
心からそう思った私は父に話しかけた。
そして、父はきっと近くで ちゃんと見てる! そう思った^^

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