--. . --

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2010. . 05

最愛3

決意

ふと我に返り、直ぐさま病院へ駆けつけた。
病室の中、祖母を見て涙が溢れた。声を出して泣く私に看護師は
「他の患者さんの迷惑になりますので、泣かないで下さい」と冷たく言い放った。
とんぼ返りで実家に戻り大泣きしている私に、病院から戻って来た親戚達は皆口々に私を叱責した。
「お前は冷たい子だねっ!あんなにお婆さんがお前の名前を呼んでいたのに、何で最期まで看取ってあげないのっ!」と。
私は勝手な事を言う親戚達に腹がたった。
祖母はずっと、親戚中をたらい回しにされ最終的に父の住む実家に安住したのだ。
手術する前、誰一人として手術に反対しなかったくせに、亡くなった現実に父や母を責める。
そして自分たちは祖母の実の子供であるにも関わらず、祖母は誰の名前も呼んでいなかった。
父の夢枕に立ち「頼むね」と言い・嫁である母に「有難う」と告げ、何十人も居る孫の中で私の名を呼び亡くなっていったんだ。
唯でさえ私は素行が悪く、警察のお世話にもなっていたりした。
しかし家族や親戚には従順で在った筈だ。
何時もなら何を言われても、決して逆らわないようにしていた私だが、この時ばかりは許せなかった。
「てめーら、ふざけた事言ってんじゃねーよ!どの口でそんな事言ってんだ!」
父や母の立場を考えている余裕などなかった。
私が言い放つと親戚達は目を丸くして驚いていた。

祖母が病院から戻って来た。
亡くなった祖母が横たわる布団の傍らで、父は泣きながら「母ちゃん、母ちゃん」と言い一緒に寝ていた。
その姿を見て私は思った。
当時の私は酷く冷めた人間で、両親に対する愛情が全くなかった。
「婆ちゃんが死ぬくらいなら、両親が死ねばいいのに・・・」等と思う愚か者であった。
しかし・そんな父や、親戚達の叱責を受ける母を見ていて考えが変わった。
私の全てであった祖母・・・
その祖母亡き今、私の全ては両親なのだ・・・。
祖母の分も、両親を大切にしなければいけない!と心から思った。
もっと・もっと、両親に対して歩み寄らなければ・・・
最愛の人を亡くして初めて、大事な両親と言う存在に気が付いた。
「婆ちゃんは私に大事な事を気付かせてくれた。教えてくれた。」そう思った。
危篤状態から葬儀終了後まで僅か一週間で私の体重は4kg減った。


あの時の気持ちを忘れない。
祖母の時のように「後悔」だけはしたくない。
そう思い、後悔が残らないように・離れていた時間を取り戻すように今、父と過ごしている。


にほんブログ村 病気ブログ がん・腫瘍へ
にほんブログ村
    ↑
ランキングに参加させて貰っています!
お手数おかけしてすいませんが、
宜しければクリックをお願い致しますm(  )m




スポンサーサイト
2010. . 05

最愛2

悲しみ

祖母は『直腸癌』で亡くなった。
亡くなる数年前から”便秘”による”腹痛”で度々入退院を繰り返していた。
あまりの痛みに顔を歪める祖母に、入院を促すと決まって祖母はこう言った。
「死ぬ時は家で死にたい・・・腹など切りたくない。」
その都度、私は祖母に向かい
「婆ちゃん、ちょっと入院するだけだよ!大丈夫!お腹なんて切らないよ^^
家で痛がる婆ちゃんを見てられないよ!ちょっとだけ入院したら、直ぐに帰って来ようね!」
と言って、当時の実家から徒歩5分程の所に在る病院に入院して貰っていた。

祖母が最期に入院する前に私は実家を離れていたが、私がまだかろうじて実家に居る時・祖母が再び入院する時があった。
その時にかけた言葉は
「婆ちゃんはお腹が弱いから、痛くなったら直ぐに病院に行かなくちゃ駄目だよ!心配なんだからね!」
と言って、痛がる祖母のお腹を撫でていた。
布団に横たわっていた祖母は、掛け布団を顔の上まで手繰りよせ、声を出さずに泣いていた。

そして最期の入院時、祖母はあまりの激痛に自ら父に「腹を切ってくれ」と懇願し手術を決めたと言う。
当時家を出ていた私は、その知らせを聞いても祖母の元へは行かなかった。
術後、危篤状態を知り病院へ駆けつけた。
ベッドに横たわる祖母は、管という管に繋がれていた。
意識はないが私が手を握り締めると力強く握り返してくれた。
時折、痛みで身体が大きく痙攣する。
何十人も居る孫の中でも、うわ言のように私の名前を呼ぶ。
駆けつけた日から2日間、私は祖母の傍を離れなかった。
こんなにも私の名を呼び、痛がる祖母の傍に居ながらも何も出来ない不甲斐無さ・・・
ただ手を握り締め・声を掛けるしか出来ない。

いい加減に疲れたであろうと、父の今は亡き姉が代わってくれた。
実家から直ぐ近所だからと、何かあったら直ぐに連絡するから、帰って少し身体を休めろと言われた。
実家に戻ると父が家の中を片付け始めていた。
「何やってるんだよ」と言う私の問いに父は
「今朝方・夢でお婆さんが出て来た。”私はそろそろ逝くから、用意を頼むね”って言っていたんだ!」と応えた。
私は泣きながら「ふざけんなっ!婆ちゃんは今も頑張っているんだ!」と言い、父の手を止めようとした。
その時に電話が鳴った。
祖母の死を知らせる内容であった。
私はその場に座り込み、途方にくれていたが父は手を休めなかった。


にほんブログ村 病気ブログ がん・腫瘍へ
にほんブログ村
    ↑
ランキングに参加させて貰っています!
お手数おかけしてすいませんが、
宜しければクリックをお願い致しますm(  )m



2010. . 05

最愛1

今朝の訃報を知り、色々と考える。
最愛の人を亡くされるとは、どれ程までにお辛い事だろう・・・と。
以前の日記に一度だけ綴った「祖母の事」を思い出した・・・
祖母が他界するまでは、祖母が私の全てだった。
祖母の事も綴っておこうと思う。


回想

私が2歳か3歳。まだ物心が付くか・付かないかの頃。
祖母はバイクに跳ねられ、入院した。
生死の境を彷徨い、半年後・無事に生還した。
既にその時には『直腸癌』が発見されていたらしいが、事故で亡くなるであろう見解で『癌』についての処置は何もされていなかったそうだ・・・

そして私がまだ17歳の時に、大好きな祖母は他界した。
私が生まれた時には既に同居していた祖母。
両親と生活を共にはしていたが、私は祖母に育てられたと言っても過言ではない。
お風呂も一緒に入れてくれて、寝る時も一緒であった。
私が実家を出る16歳まで、祖母と外出する時は何時も手を繋いで歩いた。

何処へ行くにも何時も一緒で、保育園の送り迎えも勿論祖母であった。
小さな私は大好きな祖母が迎えに来てくれる事を喜んではいたが、一度だけ悲しませてしまった。
周りの子はどんなに遅いお迎えでも、母親が来てくれる。
それが羨ましくなり、働く母に「今日だけはお迎えに来て!」と頼み母も「分かったよ」と言ってくれた。
その日は母が来てくれると喜び、先生や友達にも話していたが、閉園間近に現れたのは祖母であった。
仕事で迎えに来れない母に代わり、迎えに来てくれた祖母に泣きながら、母に対する怒りをぶつけてしまった。
何も悪くない祖母は私に謝った。
その時の祖母は、一体どんな気持ちであったのだろう・・・考えると申し訳なさに泣けてくる。

私が小学校2年生の時、翌日に遠足を控え”おやつ”を買いに行くと言った時も、祖母だけが「夜で危ないから」と言い一緒に来てくれた。
家から歩いて3分程のコンビ二へ行こうと、コンビニの目の前・道路を横断する際に祖母と私は車に撥ねられた。
祖母は車に引きずられ、私は数十メートル撥ね跳ばされた。
むくっと起き上がり出血している祖母を見た。
私は目の前のコンビ二へ走り、おやつを買うお金でティッシュを沢山買い祖母の元へ駆け寄った。
買ってきたティッシュで祖母の出血を押さえる。
運転手本人は何も出来ずに、ただつっ立っている。
周りで見ている大人達(野次馬)は、誰も手を貸してはくれなかった。
後で知った話だが、野次馬の中には近所に住む親戚が居たそうだ。
救急車が到着し、近所の為サイレンの音に気付いた母が駆けつけてきた。
救急隊員は、私が一緒に事故にあった事を気付かなかったようで、祖母と母だけを救急車に乗せ病院へ行ってしまった。
残された私は、救急車を見送った後に倒れた。
倒れながら「婆ちゃんが死んだらどうしよう・・・」と、ただ其れだけを考えていた。


にほんブログ村 病気ブログ がん・腫瘍へ
にほんブログ村
    ↑
ランキングに参加させて貰っています!
お手数おかけしてすいませんが、
宜しければクリックをお願い致しますm(  )m




2010. . 21

亡き祖母の事

祖母(我が父、イチローの実母)は私が生まれる前から同居していたらしく、私はお婆ちゃん子だった。
私が17歳の時に大好きだった祖母が”直腸癌”で他界した。92歳だった。
長い年数、便秘と腹痛に悩まされ、あまりにも酷い腹痛が続く時は入院する事も侭あった。

当時私は一人暮らしをしており、実家には余程の事が無い限り帰らなかった。
ある日実家から電話が入り
「お婆さんが入院した。明日手術をする。万が一の事が在るかも知れないから帰って来なさい。」
と連絡を受けた。しかし私は
「万が一って、何よっ!まるで、お婆ちゃんが死ぬような事言わないでっ!無事に手術が終わってから帰るから!」
と言って手術前には帰らなかった。
手術の翌日、当時私が働いていた職場に再び電話が入った。
「手術は受けた。腹は開いたが、手を付けられずにそのまま手術は終わった。意識が戻らず危ない状態なので、お婆さんが生きてるうちに早く帰って来い。」
と連絡を受けてる電話口で涙が溢れた。直ぐに上司に理由を話し、大急ぎでお婆ちゃんの待つ病院へ駆けつけた。

手術から三日後に、意識を取り戻す事無く祖母は他界した。
何で手術前に帰らなかったのかと、悔やんでも悔やんでも悔やみきれなかった・・・
祖母が病院から戻って来たその夜、祖母の横たわる布団の傍らに、父が泣きながら一緒に横たわっていた。
父は普段、祖母の事を「お婆さん」と呼んでいたが、この時は「母ちゃん、母ちゃん」と呼んでいた。

大好きだった祖母は「ツル」という名前だった。

私は、父の黄疸値が下がらず思い悩み、薬を飲んでも眠れない日々が続き、ぶち切れ薬を飲むのを止めた頃から、千羽鶴を折り始めた。
大好きな祖母(ツル)が父の元から”癌”と言う病気を乗せ羽ばたき、父を守ってくれるというイメージを想像しながら鶴を折った。

にほんブログ村 病気ブログ がん・腫瘍へ
にほんブログ村
 HOME 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。