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2014. . 04

不思議 2

6月4日(水)

23年前にも見た不思議な夢

父が亡くなってから不思議な夢を見た。
その夢から目覚めた後にふと思う。
「あれ?この夢って・・・・・確か大昔にも見たような?」



私が17歳の時に最愛の祖母が亡くなった。
亡くなってからは毎日のように 「夢の中でも良いから祖母に会いたい!」 と思い続けていた。
だが、それも虚しく、祖母が夢に出てきてくれる事はなかった。
それから暫く経った頃、四十九日の前だったか後だったかは忘れてしまったが、思い続けた祖母が、やっと夢の中に出て来てくれた事がある。

六畳間くらいの畳張の部屋。
カーテンも付いていない小窓がある。
部屋の真ん中にテーブル(ちゃぶ台?)だけがあり、その他に家具などは見当たらない。
日付も時間も定かではないが、小窓から差し込む光の加減で、それが西日である事が感じられる。
テーブルの前には正座している祖母。
祖母の両手は正座をしている膝の上。
テーブルをただ黙って見つめ続けている。
私がその様子を見ている事を、祖母は気付いていない。

・・・と、ただそれだけ。
そんな夢から目覚めた後
「婆ちゃんが夢に出てきてくれて嬉しいけど・・・・・あれは何の意味があったのだろう?」
そんな風に感じた私。
これと言って会話をしたとか、何かを語りかけてくれたわけでもない。
ただ祖母が座っているのを、黙って私が見つめ続けているだけの夢。
その夢を不思議に感じた私。


そして今から2年前。
やはり父の四十九日の前だったか後だったかに見た夢。
23年前に見た、祖母の時と全く同じ夢。
違うのは、祖母が父に代わっただけで、その他は1つも違わない。
父のその夢から目覚めた後、デジャブのような気がして記憶を遡ってみれば、何の事はない、祖母の時にも見た同じ夢。

その夢には何か意味があるのだろうか?
不思議に思った私は、母にその夢を話して聞かせた。
「母ちゃん・・・・・昨日、父ちゃんが夢に出てきたよ。
むかぁ~し昔、婆ちゃんの時にも見たんだけど・・・・・全く同じ夢だった。
あ、ほら!昔、母ちゃんに話した事があるじゃん?もう昔の事すぎて覚えてないかな?」
そう言いながら話していると、途中でその事を思い出した様子の母。


前の記事にも書いたけど・・・・・私の母は霊感が強い。
無神論者を豪語している私ではあるが、霊的な事は私も信じている。
霊感が強い母なら、私の見た夢の意味が分かるだろうか?
そんな思いで話してはみたのだが、敢てその事は書かないけど、母の答えは私の想像するところとは違うものだった。


父亡き後、今思えば当時の私は少し病んでいたのかも知れないと思うのだが・・・・・
真剣に 「父ともう1度だけ話がしたい!何とか手立てはないものか?」 と考えていた。
会えるはずもないし、話す事も出来ないと分かっていながら、それでも真剣に模索した。
そんな中、色々とネットで調べていた時に目にしたページ。
それは、人の死後について色々と書かれていたのだが、宗教云々はさておき・・・・・
私の見た夢と何となく類似された事が書かれており、何となくそれを信じた私。

私が見た夢の母の答えは、とても受け入れたくない、受け入れがたい内容であった。
でも、ネットに書かれていた事は
「なるほど・・・・・そーゆー事もあるのかも?」
そんな風に思える。
そうであると信じれば、亡き祖母も、亡き父も・・・・・そして夢を見た私も救われる。
23年の時を経て、不思議に感じられていた夢も、何となく自然に受け入れる事ができた。


一体、何の話だ?血迷ったのか?今も病んでるのか?
と、ブログを読んで下さった方には思われるかも知れないと承知の上で、今日の記事は書きました。
長く生きてりゃ、同じ夢なんて見ても不思議じゃないだろ!
そうは思いつつ・・・・・
でも、この夢だけはそう思える事ができなかった。

そんな風に思うなんて・・・やっぱ、私って、病んでるんですかねぇ・・・・・

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2014. . 03

不思議 1

6月3日(火)

無くしていた腕時計

まだ、ホスピスの大部屋にいた頃。
父が自宅から持って来ていた、愛用の腕時計が無くなってしまった。
膵臓癌が発覚してから父の体重が激減し、今まで愛用していた腕時計が 重く、緩く なってしまったと聞いた兄と私は、父の日?父の誕生日だったか定かではないが、新しい腕時計をプレゼントした。
しかし、プレゼントした当初こそは使っていたのだが、そのうちに段々と使わなくなってしまった。
結局は 重く、緩く なってしまった腕時計の方が使い勝手が良かったらしく、ホスピスへもその腕時計を持って行った。

せん妄もまだそこまで酷くはなかった父だが、見当違いは見られていたので
「さっきまでしていたのに、ちょっと外した隙に腕時計が無くなった!」
と言われたが、父の勘違いで何処かに置き忘れたのではないか?と思い、何れ見つかると思っていた。
だが念のため、看護師さんたちにはその旨を話しておいた。
病室や病棟で 「持ち物が無くなる」 事は、病棟サイドとしても色々な意味を含め問題があるらしく、看護師さんたちも皆必死で探してくれたようだったが、結局はホスピスを出る日を迎えても、腕時計が見つかる事は無かった。

父の火葬の時、棺に様々な愛用品を納める時も、兄と私がプレゼントをした方の腕時計を入れた。
兄曰く
「お父さんが気に入っていた方の腕時計を棺に納めてたら、お兄ちゃんは ”形見” として、プレゼントした方の腕時計を貰おうと思っていた。
でも、プレゼントした方を棺に納められた事は、みぃー。やお兄ちゃんにとっては結果的には良かったな。
ちゃんとお父さんに持って行って貰えたからな。」
そう言っていた。


そして
父の火葬を(一昨年の)4月7日に終え、翌々日の4月9日(月)。
姉と私は、再度ホスピスへと車を走らせた。
納骨さえまだだったが、無事に父の火葬を終えられた報告をしたいのが一点。
それと、改めて心ばかりのお礼をしたいが為に。

病棟の看護師さん全員、各々にお礼の品を買うのは考えるところがあり止めておいた。
だからと言って、特にお世話になった4人にのみ個別に買うのも躊躇われた。
結果、 I 崎さんにだけ個別でお礼の品を渡す事に決め、病棟の職員さんたち全員にお渡しできるようにと菓子折りを2つ買い、あとは ”病棟自体” に買った。

病棟のラウンジには、今まで入所された方の御身内がお渡しした 「お世話になった感謝の思い」 が様々な形で飾られていた。
手作りの小物、ぬいぐるみ、千羽鶴、絵手紙や風景画など、様々な物が飾られている。
それらを見ると、ここで最期を迎えられた事を皆さん本当に喜んでおられ、感謝されている事が伝わってくる。
それら思い出の品の中に、私たち家族も交ぜて頂けたら嬉しいな^^
そんな思いで、額縁に入った、メッセージの入った可愛らしい絵が描かれている物を選んだ。
「あなたに出会えた事が感謝  あなたと笑える事に感謝」
たしか、こんなメッセージだったように思う^^


ホスピス病棟に着くと、丁度お手すきだったようで 若先生 と 頼りになる体格の良い看護師さん 手塚○美さんに似た看護師さん がラウンジに出てきてくれた。
父の火葬が終わった事を報告しながら、持参していた父の遺影(小さいもの)を見て貰った。
父がまだ痩せ細る前の写真で、姪の七五三の時のものなのでちゃんとスーツを着ている。
若先生は
「お父様、本当に男前ですねぇ~^^」
と、何とも嬉しい事を仰ってくれた。
2人の看護師さんも口を揃えて
「私達の知っているお父様は痩せてらしたけど、でも カッコ良いな~♪そう思ってましたけど・・・・・
写真のお父様はまだ痩せる前で、違う意味でもっとカッコ良いですね♪やっぱり素敵です!」
そうお褒め下さった^^

少しすると、ホタルちゃんが私たちが来ている事を何方かに聞いたようでラウンジに来てくれた。
そして嬉しそうに
「見てください^^お父様の腕時計が見つかったんですよ♪
あれほど何処を探しても見つからなかったのに、お父様がホスピスを出られた後、掛け布団の敷布の中から出てきたんです!なぜ、敷布の中にあったのかは判りませんが・・・・・」
そう言って、父の愛用していた時計を手渡してくれた。

その後は ホタルちゃん にも写真を見て貰ったりお話したり・・・・・
タイミングが相当良かったのだろう!皆さんと暫くの間、ゆっくりとお話しする事ができた^^
十分にお礼の言葉も述べられたし、お礼の品も厭味なくお渡しする事が出来た♪
ただ1つ残念な事に、 I 崎さん は出勤前との事でお会いする事が出来なかったのだが・・・・・

そんなこんなで
秋にホスピス病棟で行われる 「偲ぶ会」 に出席する事を約束して、病棟を出ようとエレベータに乗り込み病院ホールまで降りた姉と私。
エレベーターの中で
「I 崎さんに会えなかった事だけが心残りだね・・・・・」
そう言いながら手渡せなかったお礼の品を見ていた時、エレベーターのドアが開いた。
奇跡的に、その開いたドアの前には I 崎さんの姿があった!
I 崎さんは、この日、たまたま少し早く出勤されたのだそうで、無事にお会いする事が出来たのだった
そして場所を移し、I 崎さんと少しゆっくりお話する事も出来たし、お礼の品も個別にお渡しする事が出来た♪



ホスピスからの帰りの車中、姉と2人で
「皆さんとゆっくり話せたし、会いたかった看護師さん全員に会えて本当に良かったね♪」
と、喜び合い
「でも、よく時計が見つかったよねぇ~~~!
愛用の時計を棺には入れられなくて、父ちゃんには悪いような気がするけど・・・・・
でも、これこそ家族にとっては 大事な形見 になるよね^^」
などと言い合いながらも
「きっと父ちゃんが、そうなるようにと、してくれたんだね♪」
そう思い、きっと父が してくれたであろう 事に感謝していた^^

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2014. . 31

けじめ

5月31日(土)  ※今日は独り言です

なんだかんだ、更新したり休んでみたりしながらも続けてきたこのブログ。
2009年に父の膵臓癌が発覚した当初、医師から告げられた余命宣告は
「このままだったら3か月~半年。抗がん剤がうまくいって1年。」
だった。

有難い事に ジェム が功を奏してくれたお蔭で、無事に半年はクリア出来た。
そして、そろそろ1年の壁が見えてきた頃。
2010年の1月からこのブログをたちあげた。

父亡き後、既に2年の月日が経過している現在。
父と過ごした日々、父との大事な想い出を、やっと全て書き綴る事ができた。
このブログは 「父との大事な想い出」 を、家族の想い出として残そうと始めた。
勿論、こんなブログでも 「何方かのお役に立てて頂く事が出来れば!」 との思いもある。
(でも・・・実際は、何もお役に立てて頂く事は出来なかったと思うが


途中、何度も 「このままもう止めてしまおうか・・・」 と、思った事もある。
でも、父との約束を果たすため、途中・何カ月もお休みした事もあったが、こうして書き終る事が出来そうだ。
もっともっと、事細かい事や、父以外の事さえも書き続けていれば、この先もずっとこのブログは続けていく事が出来る。

父の 「膵臓癌」 をタイトルにして書き始めたこのブログ。
父の事を書き綴れたのならば、今度はタイトルを少しだけ変更して、母の 「舌癌」 や 「大腸癌」 をタイトルにして、ブログを続けていく事だって出来る。
なんなら、自分の 「病気」 を題材にしたってイケるのではなかろうか^^?
そんな思いが脳裏を掠めなかったわけでもない。 (別に ”病気ブログ” にこだわる事もなし!)
だけど
「父の事」 を書こうと思って始めて、そして父の事をちゃんと書き綴れたのだから、ここで一旦 「けじめ」 をつけてこのブログは終わらせようと思う。 

わざわざ自分の中で 「けじめ」 をつける為だけに、記事としてアップする必要はない。
でも、敢て公言しておく事が、ダラダラとブログを続けて仕舞いかねない自分への抑止力となるだろう。
しかし、そうは言っても・・・・・
まだ、あと少しだけ書きたい事もある!
なので、あと5回だけ更新したらこのブログを終わりにしよう。
名残惜しい気持ちはあるが、けじめをつける為そう決めた。


いつもこの様な拙いブログにお越し下さる方々へ
自分勝手な言い分で大変申し訳ありません。
今少しお付き合い頂く事が許されるならば、あと少しだけ生暖かい目で見守って下さいませです(*_ _)人

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2014. . 28

遺骨

5月30日(金)

叫びだしたい、縋り付きたい・・・・・
そんな衝動に駆られながらも、父を扉の向こう側へと見送り、その扉が閉められた時 「姿を見る事が出来る父との別れ」 を観念した。
そしてその後、1時間ほどを経て父を迎えにと戻ったのだが・・・・・

不思議な事に、遺骨となった父を見た時には既に諦めがついた。
仕方ない事とは言え、あれほど嗚咽をあげ泣いたにも関わらず、遺骨になった父と対面した時、変な表現の仕方ではあるが、何故か清々しいような気持ちになった。
息を引き取ったとはいえ、横たわる姿が見えるうちは 「死を認めたくない」 「死を受け入れたくない」 気持ち。
だが、遺骨となってしまっては死を認めざる得ない状況で 「やっと父の死を受け入れられた」 のかも知れない。
あれほど姿が見えなくなる事に涙したはずが、火葬後は自然と 「父ちゃんはずっと心の中に生き続けてる」 と思えるようになった。


その後はご住職を見送ったり、葬儀社の方にお支払いを済ませたり。
この日に納骨を済ませる訳ではなかったので、その後は来て頂いた方にご挨拶を済ませ実家へと戻る。
そのまま一緒に実家へと来て下さる方々も居たのだが、車に乗込むときは皆さん口を揃えて
「家族水入らずで帰れるように、皆は同じ車に乗ってお父さんと帰って^^」
と、お気遣い下さった。
そして兄が運転する車に母と姉と私が乗って、私の膝の上には父の遺骨を抱き抱えて帰路に着く。

実家の近くは川沿いで、そこには数百メートルの桜並木。
風に吹かれ舞い散る桜吹雪の中、生前は叶う事がなかった父とのお花見を、私たちは車に乗りながら、桜並木を横目にお花見をしながら帰った。
母や姉、兄や私も口々に父の遺骨に話しかけながら皆で帰る。
「父ちゃん、桜が咲いてるよ^^」
「今までお花見なんて家族でした事もなかったけど・・・・・皆でお花見だね♪」
そんな言葉を口にしながら、この時も涙は流れてきたけど。
でも、この時の涙は先ほどまでのとは違う。
なんか・・・・・晴れやかな気持ち、晴れやかな涙だった。


まだまだ、全てが滞りなく終わったわけではないけど・・・・・
丸々3年に亘った父の闘病生活。
父と共に歩んできた、沢山の大事な思い出ができた闘病生活が、この時に終わったのだと感じていた。

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2014. . 28

火葬

5月28日(水)

一旦は K美と実家に訪れた姉。
K美のランドセル姿を父に見せた後、この日は実家に泊まる為、取り敢えず K美を自宅に連れて帰る。
その後暫くして再度実家へと戻ってきた姉。

有難い事に夕方から夜にかけても、お線香をあげに来て下さる方が多く、父も沢山の方にお別れが出来た事を嬉しく、有難く思っていたのではないだろうか。
この日最後に来て下さった方が夜9時過ぎに帰られ、1日忙しかった母と兄には休んで貰う事に・・・・・
そしてホスピスに居た時以来(と、言ってもつい2日前)この日は姉と共に寝ずの番をした。

よく 「泣いてる暇もないほど忙しい」 などと耳にはしていたが、自分が経験してみて心底実感した私。
ホスピスを出て、実家に戻って来るまでは 「我ながら、よくもこんなに泣けるものだ」 と思っていたけど、実家に戻ってきてからは本当に泣く暇もないほどに慌ただしく、忙しい時間を過ごしていた。

深夜になり、姉と色々と話はしていたものの・・・・・正直2人共、既に疲労困憊状態。
実質9日間は満足に睡眠時間を確保できてはいなかった事もある。
会話をしていても、お互いにボケェ~としていた^^;
それでもまだ、気が張っているからこそ出来たのだろう。



明けて翌日。(一昨年の)4月7日。
少しだけ仮眠はとったものの、母と兄が起きてからはお互いに自宅へ戻り、身支度を整え喪服を持って再度実家へ。
姉は Kちゃんと K美と共に。
私は I ちゃんと共に実家へと戻った。

葬儀場(火葬場)の予約時間の2時間前位から葬儀社の方が来てくれる。
親族やご近所さんから、一緒に葬儀場へ・・・・・と仰って貰ってはいたが、最少人数にて執り行う事に決めていたので、此方からお声掛けさせて頂いた方のみ、出棺から来て頂いた。

葬儀社の方に言われる通りの手順を踏み、お棺の中に 「父の愛用品」 などを納める。
その他にも 「父が旅の途中で食べれるように」 と、食べ物も入れた。
そして頂いていた花束をばらし、父の周りを花で埋め尽くし・・・・・
最後に父の膵臓癌が発覚した当初、私たち家族で作った 「千羽鶴」 も一緒に納めた。

(余談ではあるが・・・・・
確か昔は 「三途の川を渡る為に必要なお金である 六文銭 を棺に納める」 必要があり、今の時代に 六文銭 がない事から、代わりにお金を一緒に入れていたはず?
でもこの時は 「紙に書かれた六文銭」 を一緒に納めたのだが、今はそう言うものなのだろうか?
・・・そう言えば、昔の旅支度は服装から何から決められてたもんな!一体、何時位からこうなったのだろう?などと疑問に思った。)


少人数の為マイクロバスなどは出さず、各々の車に乗り込み葬儀場へ。
時間の都合で実家へ来て貰う事が出来なかった人とは葬儀場にて合流した。
そして予約の時間まではロビーで過ごしその時を待っていたのだが、この時はまだ葬儀社の方との打ち合わせや、ご住職のお迎えなどで忙しく動いていた私。
あちらこちらに気を張り巡らしていた事もあり、悲しみに浸る事もなかった。



時間になり、いよいよ父が・・・と、なり、ご住職にお経をあげ始めて貰った途端、急に嗚咽とともに涙が溢れ出た。
息を引き取ったとはいえ、父は安らかな顔でただ眠っているだけに見える。
誰に、とか、何に?ではなく、叫びだしたい衝動にかられる。
「お願いだから、父ちゃんを燃やさないで!」
だけど、勿論そんな事は言えない。と言うか、言わないけれど・・・

肉体が目に見えなくなったとしても、自分が覚えている限り、故人の魂は生き続ける。
・・・そうは思っているけど、でも、今目に見えている父の姿が見れなくなると言う寂しさ。
これで最後となる父の姿に縋り付き、離れたくない。という衝動にかられる。

係りの方から
「では、最後のお別れです。ご親族様2名様のみ、ドアの前までご一緒にどうぞ。」
と声をかけられ、母と兄がドアの前まで歩み出た。
・・・本当なら母と一緒に私が行きたかった。
でも、私が行ってしまったらきっと、衝動が抑えられずに本当に父に縋り付き泣き叫んでしまっただろう。
一歩だけ踏み出していた足ながら、やっとの思いでその場に留まった。

K美は幼さから、まだ 「人の死」 と言うものを理解していないようで、嗚咽をあげて泣く私や、涙を流す周りの大人たちを不思議そうな顔で見ていた。
そして、あまりにも酷く泣く私の顔を覗き込み
「みぃー。ちゃん・・・・・泣いてるの・・・?」
と小声で、やはり涙を流していた姉に聞いていた。


父が息を引き取った時も、勿論、大泣きした私ではあるが・・・・・
ここまでの嗚咽をあげて泣いたのは、ここ数年間で、後にも先にもこの日、この時だけだった。

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